インプットとアウトプット
- 雨
- 2019年2月24日
- 読了時間: 3分
更新日:2020年10月18日

完全な無から有を生み出すことは可能だろうか。なんて、少々お堅い一文から入ってみましたが、今回もいつも通りどうでもいい感じの内容です。「インプットとアウトプット」というタイトルを改めて考えてみると、これらの言葉はビジネス用語なんですよね。創作活動においても普通に使われているのですっかり忘れてました。
執筆に限定してインプットとアウトプットという言葉を説明すると、インプットは他者の作品に触れたり、自分自身が様々な経験をしたりして知識や記憶を「入力」することだと言える。アウトプットはインプットしたものを基に、そこから生まれたアイディアを文章として「出力」する、つまり小説を形にすることである。
私の説明が適切かどうかはさておき、自分の中に書きたいことがあるうちはいいが、それがなくなった時はインプットが必要になってくる。私の場合は常に何か小説のヒントになるものはないかと目を光らせているわけではないので、ある程度意識して何かを行わないと「インプットしている」という状態にはならない。
小説を「書く」ためには「読む」ことが重要だという話をよく聞く。私は2016年から自分の読書状況をブクログで管理しており、この約三年で読んだ本を調べてみたら90冊ほどだった。一年間で約30冊、一ヶ月だと2.5冊という計算になる。エッセイや絵画解説の本もこの中に含まれているので、小説だけだと一ヶ月に一冊も読んでいないことになる。
おそらく、小説を書いている人間の読書量としてはかなり少ない部類に入ると思う。しかも、私はほぼ決まった作家の小説しか読まないので、インプットという観点から考えると効果的なものであるとは言い難い。読書によって刺激を受けるというよりは、最早習慣のようになってしまっている。実際、この小説を読んだから自分でもこういう話が書きたくなった、というようなことはほとんどない。
どちらかと言うと、小説ではなく音楽や絵画からインスピレーションを感じることの方が多い。映画を観て心が揺さ振られるような感動を覚えても、それが執筆に活かされているかどうかは疑問である。小説や映画のように、物語というものが具体的にほぼ完璧な形で表されていると、それで全てが完結して、私が書く別の物語には繋がらない。
何となく、例えば純愛を描いた恋愛映画を観た時に、ああいう雰囲気の話が書きたいなと思うこともあることにはある。こういうのもインプットだと言っていいのだろうか。自分の中から書きたいことを取り出すきっかけになっているのだから、言っていいのか。
何だかどうまとめていいのかわからなくなってきたが、やはり自分がこの目で見た光景が一番小説に活かされていると私は思う。目的のない散歩や知らない街を歩いている時などに、よくふっと何かを思いつく。季節や温度、すれ違う人、何でもない有り触れた世界の中にいるはずなのに、書きたいことが頭の中に浮かんでくる。
今はもう、自分が無から有を作り出している感覚はないに等しい。知識も経験も記憶も、その量がどうであれ、私の中で澱のように溜まっている。私が気づいていないだけで、きっと、今まで読んだ小説や観た映画も執筆のヒントになっているのだろう。私がこれから書く物語は、もうすでに誰かの物語なのかもしれないと、時々思う。
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